ハドリアヌス帝の回想6ー ギリシア人メトード

青年期、ハドリアヌスは後見人であるアティアヌスにより学問を嗜むようアテナイに送られました。
そこでレオティキデスの医学講義を聴講し、この医師とその職業に魅了されます。
ハドリアヌスは、医師の精神と皇帝が職務を果たすときの精神は本質的に異なるものではないとし、
医師の職業になら喜んで就いただろうと考えました。
レオティキデスについては「明晰な、乾いた知性の持ち主」と賞賛し、万能の人と讃えます。

Esprit sec, il m’apprit à préférer les choses aux mots, à me méfier des formules, à observer plutôt qu’à juger. Ce Grec amer m’a enseigné la méthode.

明晰な、乾いた知性の持ち主である彼は、言葉よりも事物をとることを、公式を信用せぬことを、判断するよりもむしろ観察することを、わたしに教えた。この苦みをもったギリシア人はわたしに方法というものを授けたのである。

Marguerite Yourcenar, Mémoires d’Hadrien(『ハドリアヌス帝の回想』 多田智満子訳)

その後、ローマに戻ったハドリアヌスは、そのヘレニズム嗜好のために、
元老院で「ギリシア先生(l’étudiant grec)」とあだ名されました。
またローマ皇帝ではじめてギリシア人哲学者のように髭をはやした人物でもあります。

言葉よりも事物をとる、という部分を読んだとき、ふと頭に浮かんだのが「実存主義」。
「実存は本質に先立つ( l’existence précède l’essence)」
そもそも存在には当初何も意味や価値がなく、後に作られるものだとする実存主義の考え方は、
自己を偶然の気まぐれな産物と認識した上で、その源泉を、出発点を、存在理由を捜し求めた
ハドリアヌスの思いと(ハドリアヌス帝の回想4ー自己について)、
根底の部分でなにか共通のものがあるように感じられました。

アルベール・カミュについて学んでいたとき、あえて避けて通ったカミュ=サルトル論争ですが、
ここで一度あらためてサルトルの考えに向き合ってみるのもいいかもしれないと思いました。
サルトルについての分厚い一冊、発売まもなく買いましたがほぼ開かずに置き去りのままです。

 

      

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