ハドリアヌス帝の回想4ー自己について
ハドリアヌス帝は自己について内省したとき、それが曖昧な形をしていることに驚くと言います。
「何ひとつとしてわたしを説明するものはない」ー。
Mais l’esprit humain répugne à s’accepter des mains du hasard, à n’être que le produit passager de chances auxquelles aucun dieu ne préside, surtout pas lui-même. Une partie de chaque vie, et même de chaque vie fort peu digne de regard, se passe à rechercher les raisons d’être, les points de départ, les sources.
しかし人間の精神は、自分が盲目的な運命の手中にあること、そして自分がいかなる神もみそなわさぬ、また特に自分自身がまったくあずかり知らぬ偶然の気まぐれな産物にすぎないことを、認めたがらぬものである。いっこうに注目に値せぬ人びとの人生においてさえ、各人の生活の一部は、存在理由を、出発点を、源泉を、捜し求めるために費やされる。
Marguerite Yourcenar, Mémoires d’Hadrien(『ハドリアヌス帝の回想』 多田智満子訳)より
人間の存在理由や自己の源泉を見出すことができず無力を感じたハドリアヌス帝は、
魔術や秘儀に訴えてみたりしますが、やがてその虚偽を知ったとき、
小鳥たちのさえずりや星々に心を向けるのは当然なことだ、と締めくくります。
自分探し、自己肯定、自己研鑽などのテクニックがいろいろなところで紹介されている今日この頃、
ときにはすがる思いで読みあさったりすることもありますが、なにか虚しく終わることもしばしば。
とくに特別な神様を信じているわけではありませんが、人知を超えた宇宙の大きな流れのなかで、
その一構成要素として素直に生きていけばいいんだと思うと一番自然に楽な気持ちになれる気がします。
それにしても、自分が偶然の気まぐれな産物にすぎないこと、そしてそれを認めたがらぬもの、
という一節には、米国の行動経済学者ダニエル・カーネマンの著書『ファスト&スロー』を
読んでいたときの気持ちを思い出しました。
成功や不成功は運によるところが大きい、という説を素直に認めたくなかった気持ち、
やはり何か勝因や敗因があるはず、と思いたかった気持ちです。
すべて運次第なら努力することは虚しく、享楽的に生きたほうが楽しくて得?
これまで実る努力にも実らない努力にも多大な時間を費やしてきた自分は全否定される感じ…。
でもこの本には、無意識的、直感的に判断する早い思考(システム1)も学習や訓練の経験で改善の余地があること、
論理的に熟考する遅い思考(システム2)を駆使して意思決定の過程を改善し判断の誤りを低減できる可能性があること、
といった、わずかながらでも人間の努力は無駄ではないと思われることも書かれていました。
こちらの本の具体例はとても興味深く、また脳みそが少し整理される気分にもなれる本なので一読をお薦めです!